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東京高等裁判所 昭和60年(う)497号 判決 1985年8月20日

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中一一〇日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、被告人及び弁護人菊地祥明が提出した各控訴趣意書に、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官検事大川敦が提出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これを引用する。

論旨は、いずれも事実誤認の主張であって、要するに、原判決が、(イ)被告人には殺意がなかった(被告人の主張)のに未必的殺意があったと認定した点、(ロ)被告人の所為は正当防衛(被告人の主張)又は過剰防衛(被告人及び弁護人の主張)に該当するのにこれを認めなかった点において、いずれも事実誤認があり、右誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるというのである。

そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して検討すると、原判決挙示の証拠によれば、本件の経緯は次のとおり認められる。

(一)  被告人は、本件当時、静岡県伊東市《地番省略》の甲野荘二階一号室に居住し、B子が同所を訪れては泊るなど、同女と実質的に同棲していたが、昭和五九年七月一三日の晩、同所四畳半の間で、被告人、被告人の従業員C、右B子、同女の母D子が一緒に食事をした際、被告人は、B子と些細なことから口論となり、B子から金属製物干しで殴打されて腹を立て、同女に練ったうどん粉を投げつけ、さらに同女の腰を足蹴にするなどしたため、同女がその実弟であるE(当時三七歳)を電話で呼び加勢を求めた。

(二)  間もなく右Eが現れ、いきなりB子と母親のD子に対し「ここへ来るなと言ったのになんで来た」と怒鳴り、さらに被告人とB子に対しても「お前ら他人なんだからもう別れろ」といったうえ、「別れるんだったらただじゃすまないぞ」などと怒鳴りつけたことから、被告人は、EからB子と別れるための手切れ金を要求されたように思ってますます腹を立て、Eに対し「ただではおかないとはどういうことだ」などと怒鳴り返すと、Eもこれに反発して金属製のへらを手に持ち、テーブルをはさんで向かい合い立ち上がった被告人の腹部にこれを二、三回突き出したため、被告人も喧嘩腰となって「上等だ、表へ出ろ」と怒鳴るや、Eが「いいだろう、やろうじゃないか」と応じて互いに激しく怒鳴り合い、喧嘩を始める気配となった。

(三)  その直後、Eが四畳半から台所へ向かったのを見たB子が「お母さん包丁隠して」と叫んだため、これを聞いた被告人は、Eが包丁を取りに行ったものと思い、台所の方を見ると、Eが空のビールびんを手にして四畳半の方に向き直ったが、それもB子に取りあげられると、今度は玄関脇の傘立てから、ビニール製の洋傘を手に持ったのが見えたことから、被告人は、これに対抗するため、二、三歩歩いて隣りの六畳間のタンスの上から刃体の長さ約二一・五センチメートルの丹刃を取り、これを持って四畳半の間に戻ると、Eが玄関方向から「てめえ、この野郎」などと怒鳴りながら右洋傘の先端を小刻みに突き出すようにして被告人に向かってきたので、被告人は、さやから抜いた丹刃を利き腕の左手に持って腰の辺りに構え、少しずつ近づいてくるEに立ち向かい、右手に持ったさやで洋傘を払ったうえ、「やってやる」と叫びながら、丹刃を持った左腕をEの胸めがけて下方から斜め前上方に力を込めて一気に突き出し、同人の右胸部を突き刺した。

(四)  Eはその直後「やられた、心臓刺された」といって玄関から外へ走り出して逃げ、近くのF方に助けを求めたが、そのままその場に倒れ、約一時間後、右肺動静脈等を切断した深さ約一四センチメートルに達する右胸部刺創による失血により死亡した。

被告人の原審公判供述及び当審証人Cの証言中右認定に反する部分は、前掲各証拠に照らし措信できない。

以上の事実に基づき、更に関係証拠に徴し、まず殺意の点について判断すると、右事実からうかがわれる本件犯行の動機及び右に認定した犯行の態様、本件凶器の形状、被害者の受傷部位、その創傷の深さ並びに被告人が検察官に対し、Eの右胸部を丹刃で突き刺す際、これにより同人が死亡するかも知れないが、それでも仕方がないと思って右犯行に及んだ旨未必的な殺意のあったことを認める供述をしていること、その自白は右認定の客観的事実とよく符合し信用できることを総合すると、原判決が被告人に未必的殺意があった旨認定したのは正当であって、事実の誤認は認められない。

次に、正当防衛ないし過剰防衛の主張について検討すると、正当防衛における急迫性の要件は、相手の不正な侵害に対する本人の対抗行為を正当と評価するために必要とされる行為の状況上の要件であるから、たとえ相手の侵害がその時点で現在し又は切迫しているときでも、行為の状況全体からみて急迫性の存在を否定すべき場合があり、その存否を決するには相手の侵害に先立つ状況をも考慮に入れて判断するのが相当であると考えられる。本件についてこれを見ると、右認定のとおり、B子との喧嘩口論からすでに腹を立てていた被告人が、いきなりEに怒鳴り込まれ、同人から暴言を浴びせられ、金属性のへらで攻撃する仕草をされたため、一層腹を立て興奮したあげく、自ら「上等だ、表へ出ろ」と挑発的な言辞を申し向けたことから、Eもこれに応じ、互いに興奮して喧嘩口論から現実の喧嘩闘争に発展する状況となり、前記の事態に立ち至ったものである。そうすると、本件は、被告人とEとの間ですでに喧嘩闘争といいうる状況が発生しており、その状況の継続中の行為であって、しかも、被告人は、自ら「表へ出ろ」と言ってその闘争の直接のきっかけを作った者であり、またEが当初空ビールびんを手にしたがこれを取りあげられ、次いで洋傘を持ったことを現認していたのであるから、右洋傘による攻撃を十分予期していたと認められるのであり、しかもその際被告人は、台所の方へ逃げる余裕があったのに、逃げることなく、「やめろ」ともいわず、かえって六畳間のタンスの上から右洋傘と比較して格段に危険性の高い丹刃を取り、四畳半に戻ってEを迎え撃つ行動に出たうえ、比較的ゆっくりと向かってきたEに対し、胸部めがけて一気に丹刃を突き刺したのであって、被告人は、あえて予期された相手の侵害に対抗する意図で丹刃を準備し、これを用いて機先を制し相手を打倒しようとして右行為に及んだものと認められるのであるから、右の状況全体からみて、正当防衛における急迫性の要件は充たされていなかったと認めるのが相当である。もとより、所論のように、洋傘といえども用法によっては人を殺傷する可能性のあるものと認められ、また、Eは過去に暴力団組員と付き合いがあり、粗暴な行為に出やすい者であって、被告人は右事情をよく知っており、事実本件においてもEは当初から粗暴な言動を示し、空ビールびんを持ち、次いで洋傘を取ってその先端を突き出し被告人に向かってきたのであるから、被告人がEの右挙動を見て、身の危険を感じこれに対抗するために本件行為に及んだことは容易に認められるけれども、右事情を勘案しても、Eの侵害に先立つ状況をも考慮すると、いまだ前記判断を左右するに足りない。

以上の次第であって、原判決が、被告人の行為につきEの侵害行為の急迫性の要件が欠けているとして正当防衛ないし過剰防衛に該当しないとした判断は、その説明がやや不十分ではあるが結論において正当であり、事実の誤認は認められない。なお、原判決の量刑も相当である。論旨はいずれも理由がない。

よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、刑法二一条により当審における未決勾留日数中一一〇日を原判決の刑に算入し、当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項但書を適用して全部被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小野慶二 裁判官 安藤正博 長島孝太郎)

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